哲学 - 賭け - 愛するということ
パスカルは神の実在に賭け、アインシュタインは神はサイコロを振らないと言い、カエサルは賽は投げられたと行動し、ハイデガーやサルトルは企ての中に身を投じることをエンドースした。
認識と実践のあいだには決定的な亀裂があって、それらは二元的に制御すべきで一元論的に統合するのは出来ない。マルクス主義とか社会主義システムの失敗はそこにあったのではとか思っていた。
しかし、認識と実践のあいだにある飛躍というのは、まさに賭けというものなのでは。
ギャンブラーって赤のカードが5回続いたから次は黒が来るとか流れを感じてしまうじゃないですか。
あれっておかしな話で、これからの出来事とこれまでの出来事には因果関係はないのに、人はそこに流れを見出してしまう。ヒューム的な違和感というか。有らぬものをあたかも有るかのように。
賭けはマジで哲学的なものの気がする。人生自体、僕らはディーラーではないからほとんどはじめから負け戦だけれど、賭けと言えなくもないし、むしろ、賭けの連続だからね。
他者への愛というのは賭けだな。
愛するということ=賭け。
投企=アンガジェ=エンゲージ(リング)=結婚=愛するということ=賭け。
神的なものは理解できるし、SEX的なものも理解できたけれど、ギャンブル は理解できなかったが、わかりはじめた気がする。
デカルト・カント・ヘーゲル・マルクスは神学的な形而上学で、フロイトや精神分析や現代思想の流れは性的な欲望についてで、ハイデガーとサルトルは謎だったが運命と賭けか。
賭けというものは、状況把握と確率のコントロールと可能性への前進であり、それは主体性の問題であるといえる。
それはある意味では、コミットする機会を逃さぬことでもあるが、他方で良くないゲームは続けずにすぐに降りなければならない。
カジノ=ツーリズム、街道-宿場-賭場としての群馬的なもの。
歴史的に見て群馬は江戸と信越をつなぐ中山道があり、他方で温泉が多いことから、街道と宿場が発展した。
そこから賭場が興るわけだけれど、群馬にはカジノを誘致するしかないじゃないかと考えている。
グローバル化=インバウンド観光を考えた時に、王道の観光地富士山と東京とダークツーリズム的なものとの距離と位置を考えても、それしかないのでは。
幸いな事に群馬には公営ギャンブル場がほとんど揃ってる。競輪、競艇、オート、(高崎競馬は閉鎖)。実はこれは日本全国でも稀。日本にはまだカジノは無いけど、中国を初めとするアジアのミドルアッパー向けに公営ギャンブルツアーは面白いかも。
— 武 勇 (@GS_take) 2016年2月14日
違法カジノのニュースみてふと思いました。最近全然話題にならないけど国営カジノの誘致は群馬にすればいいのでは? 「桐生ボート」「前橋競輪」「伊勢崎オート」そして今は亡き「高崎競馬」とギャンブルが豊富だし日本のラスベガスにすれば良いとおもう(笑) 土地もあるし( ̄▽ ̄)
— RaptorBird48 (@RaptorBird48) 2017年5月18日
カジノは一時期公営ギャンブルが全てあった群馬に… #dig954
— 夜明けの刑事(本人) (@yoakenokeiji) 2010年4月19日
引き続き #カジノ法 関連です。 #カジノ 誘致活動はまだありませんが、群馬県には #競輪 #競艇 #オートレース と公営ギャンブルが3つあり、かつては #競馬 もありました。県内の公営ギャンブルについて皆さんのお考えは? 投票とご意見をお寄せください。 #上毛ギャンブル #群馬
— #上毛つぶやき (@jomo_kikaku) 2016年12月15日